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人見会長の逝去を悼む

▼ 別れの言葉

 

社団法人日本ベトナム経済交流センター理事長

 

森 正暁(日本ベトナム経済交流センター 理事長)

 先にお知らせしたように、当日本ベトナム経済交流センターの人見美喜男会長は11月2日午前11時17分、入院先の京都済生病院で逝去されました。

 10年前に腎臓関係の障害が見つかり、長年人工透析を続けられましたが、長い療養生活の甲斐もなく、78歳で彼岸に旅立たれたわけです。

 人見氏が経済交流センターの創設を決意されたのは1995年のこと。その数年前、まだ国労大阪地本執行委員長であった頃にベトナムを訪れ、現地の鉄道に乗って線路の両側に続く戦争の傷跡・爆撃のクレーターを見て、この国の復興と発展のために尽くそうと決意されたのが動機だと聞いています。

 当センター創設当時、ベトナム戦争の記憶は残っていても海外からはこの国の将来の道筋が明確でなかった頃、何より経済の発展支援こそこの国の将来の道筋を切り開くということを明確に打ち出したことは多くの人々に衝撃を与え、財界人をはじめ各界の人々が協力の手を差し伸べました。

 以後十数年、療養生活に入るまでは理事長を勤め、現地のトップクラスの指導者を招いての経済事情セミナー、他には見られない詳細な広報活動、若い世代のサッカー交流まで含めて、経済をはじめ、文化、スポーツなど広範な分野での経済交流推進活動が続きます。このような活動を果たした団体はなく、ベトナム外務省からも表彰をうけたほど現地の深い感謝を受けました。

 当経済交流センターの活動だけでなく、日越両国の友好、協力の深まりに大きな功績を遺した人見会長の逝去は、私たちに深い悲しみを残します。そして何より両国の交流を一層発展させることが、故人の遺志を継ぎ,故人を慰める道であろうかと思う次第であります。

心からご冥福を祈ります。

 

▼ 別れの言葉

 

井手正敬(元JR西日本取締役、当センター顧問)

 好敵手 人見美喜男さん。 君が逝ってしまい、今私は全く気落ちしている。君との出会いは、第一次安保闘争の時、東淀川信号所であった。君は国労青年部日共十三細胞メンバーを率いて、私が守備隊長をしていた信号所で対峙した時だ。

 あれ以来約50年、お互い立場は労使で分かれていたが、どれだけ色々な場面で出会ったであろうか。しかしそのどの折にも君は常に誠実であったし、フェアーであった。だから立場は異なっても、人間“人見美喜男”が私は一方的だが大好きであった。

 国労本部書記長、JR西日本国労委員長等々、君の赫々たる組合歴は君の先見性ある識見とそうしたお人柄のなせるものであった。

 国鉄改革直後の、未だJR労使関係が揺れ動いていた折、多くの批判のある中、君は早々に我々と“配転協定”を結び、JR西日本の労使関係の安定に努めてくれ、今日のJR西日本の発展に寄与してくれた。有難う。

 組合を引退した時、このままでは折角の君の今までの功績が生かされないのではと恐れていた折、君から、余生を日越の友好のために尽くしたいとのお話を聞き、いささかの応援をさせて頂いたのが、せめてもの報恩となった。今日我国とベトナムの国交が円満なのもその何分の一かは君の尽力によるものと思う。

 お互いもう老齢期。しかも君はこの折持病でお悩みと聞いていたが“一病息災”と言うこともあり、まだまだと思っていた所に急な君の訃報に接し誠に残念でならない。衷心よりご冥福をお祈りいたしております。  合掌

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グエン・カイン・ルオン(元ベトナム大使館公使参事官 元大阪ベトナム総領事館領事)

 ベトナムの友人、私の恩人、人見さんが他界されました。日本に来るたびにいつもお世話になった人見さん。お元気のとき、病気で苦労なさったときも、お目にかかるとニコニコ迎えてくださいました。

 思い返せば、人見さんに最初にお目にかかったのはちょうど30年前です。人見さんが鉄道労組役員であった時でした。ベトナムから来た私に機関車(当時大阪駅に置いていたディーゼル機関車)を見せていただき、そのスタートボータンを押させてもらったのでした。それから、在大阪ベトナム総領事館開設のときも大変お世話になりました。 私一人で身動きがなかなかできない状態の中で、人見さんをはじめ日本ベトナム経済交流センターは 総立ちで協力して下さいました。関西の官民との連絡、事務の始末、開館式の手伝い、館員の生活の面倒など綿密に取り組んでくださいました。特に、ベトナムが外部の経済禁輸に苦しんでいた時に懸命に両国の経済関係を開拓する目的で人見さんは経済交流センターを粘り強く展開してきました。それ以来、私個人も長くお世話になりました。

 人見さんの人格、温かい心情、国際感覚の高い見識、ベトナムへの愛情等は決して忘れることができません。人見さんの意志は両国友好の財産であり私たち後輩の模範でもあります。

 人見さん、長年、ご苦労様でした。どうか、ごゆっくりお休みなさってください。遠いベトナムから、お線香をあげながらご冥福をお祈りします。

 奥さま、くれぐれもお身体に気をつけて旦那様の分までお元気でありますようお祈りいたします。

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上田義朗(日本ベトナム経済交流センター副理事長 流通科学大学教授)

1999年6月に「日本ベトナム親善サッカー試合」が開催された。関西のプロ4団体の若手選抜チーム「J-関西」が、ハノイでは「公安チーム」、ホーチミン市では「ナショナルチーム」と対戦した。いずれの試合も日本が勝ったけれども、ホーチミン市での試合は白熱であった。

 この試合の主催者の中心に人見さんがいた。初めての日本からの遠征試合でトラブルもあったが、人見さんの強い意志と不動の姿勢は、私を含めた周囲の人々に安心感を与えた。

 さらに人見さんの理路整然とした説得的な話しぶりや、時折の青年のような茶目っ気のある笑顔も忘れることができない。楽天主義や深い戦略的思考も人見さんから学ぶことができた。

 このような「人見マジック」に魅せられて10年以上が経過した。今、人見さんのベトナムに対する熱意を引き継ぐことが私の今後の使命のように改めて思われる。私にとって「人見マジック」は今も健在である。

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木谷八士(元「赤旗」ハノイ駐在記者)

 人見さん、永い間、ご苦労様でした。「日本ベトナム経済交流センターづくりは、わしの男のロマンや」といっていました。みごとにロマンの花を咲かせたじゃありませんか。

 ベトナム戦争での人見さんら関西の国鉄労組との連帯・支援の活動は群を抜いていました。私は、米軍機の北爆時代もふくめて10年余、ハノイに駐在して来ました。人見さんはハノイに来るたびに私に声をかけてくれ、
一ぱいやりながら議論をかわしました。帰国後も、私が関西に行くと「寄って行かんかい」とごちそうしてくれました。帰京のさい、長岡京で途中下車させられて、駅前の喫茶店で何杯もコーヒーをおかわりして語り合ったことも・・・・。同い年なのに、あなたは私の兄貴のようで、人にしゃべらせては、フンフンと聞いていましたね。人なつこい人でした。

 どうぞゆっくりお眠りください。

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大野尚子(旅行ジャーナリスト・当センター顧問)

 とても残念で悲しいお別れでした。

 人見美喜男前理事長に初めてお会いしたのは、1996年に私がベトナムの食事情や料理の本を2冊、立て続けに著した直後でした。それからは、大阪にオープン予定のベトナム料理店の料理長選びの試食に出かけたり、アジア関係のパーティーにご一緒したり、ベトナム談議に花を咲かせたり、歴代のベトナム総領事を囲む食事会で同席したり・・・。お会いする時にはいつも決まってベトナム料理が前にありました。

 「センターの顧問になってんか」「うまいもん紀行の連載を頼むわ」との柔らかくも強引な一言で顧問をお引き受けし、ニュースの連載は10年になろうとしています。

 心からベトナムを想い、ご自分がベトナムに何が出来るのかを考え続けておられたと思います。入院なさったと聞き小さな花を手に病室を訪ねた時のベッドの上での笑顔が忘れられません。「原稿頼むわな」という言葉と共に。

 どうぞやすらかに、そしてベトナムとの交流を見守り続けてください。

 
 

 このほかにも多数の別れの言葉が、当日本ベトナム経済交流センター
に寄せられましたが、紙数と締め切りの関係で掲載することができませ
んでした。お詫びとともにお断りを申し上げます。

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